三本木原の開拓史
●詳しくは「十和田市・三本木原開拓と新渡戸三代の歴史ガイドブック」をご覧下さい。
1. 三本木原開拓以前
「三本木(さんぼんぎ)」という地名の由来
この三本木地方は、十和田山(十和田湖)の噴火によってできた火山灰土壌の扇状地帯で、古くからただ荒漠たる平原であった。そしてこの土質のため雨水もすぐに地中へ入ってしまい、樹木もあまり生えなかった。夏は暑い日差しをさえぎる樹木がほとんど無く、また太平洋からは冷たい「やませ」が吹き、冷害を起こし、冬は西北から吹く「八甲田おろし」のためものすごい吹雪となり、この平原で凍死する者が多かった。古くは、主に馬の放牧地帯となっており人が住むのにはあまり適さなかった。この場所に遠方からも良く見える三本の「白たも」の木があった。これは根元から三本にわかれた大木で、現在の十和田市元町の北側、大清水神社の境内にあったという。人々はこの大木を三本木と呼び、いつの頃からかこの地方を三本木、平原を三本木平と呼ぶようになったと伝えられている。
いつの時代かわからないが、作助という百姓が盛岡から鍬一本かついで来て、この三本木を最初に切りひらいたといわれている。これが今の十和田市元町のあたりである。
※三本木原の範囲
古くは三本木平、その後三本木原といわれたが、今は「三本木原台地」といっている。青森県十和田市を中心とし、上北郡の東部に位置する広く平坦な台地で東西40㎞、南北32㎞の面積を占め、現在の十和田市ほか六戸町、三沢市、おいらせ町の二市ニ町にまたがる地域である。
昔の三本木のようす
文5(1665)年の絵図に「三本木村」とあり、三本木村の絵図としてはこれが最古といわれている。現在十和田市元町の桜田家(三本木村の「肝煎」を長くつとめ孫七という屋号を持っている)に所蔵されている。
その頃の三本木は南部領七戸代官所の支配を受け、七戸通三本木村といい、村全体の面積はかなり広かったが民家は今の元町を中心に4、50戸ほどで、石高(収穫量)も少なく貧しい小さな村だった。
例えば安永 9(1780)年の村高は51石余り、一戸平均では年約一石で、一石は目安として大人一人が一年間に消費する米の量であるから、一家族あたりに一人分の米しかなかったのである。このような状態なので、当時白米は、お正月やお盆の時か、病気になった時しか食べられず、普通は粟、稗、大豆、蕎麦を中心に食べていたという。又、南部藩では凶作が10年あるいは5年、もっと早いと3年毎に来て、白米を食べる事が夢の様だったと色々な記録に書かれている。飢饉は深刻で、天明3(1783)年の大飢饉後には当時三本木村に52軒あった家がわずか26軒に減ってしまったほどであった。
※南部藩の凶作は江戸時代約250年の間に76回もあった。その中で元禄、宝暦、天明、天保の飢饉は最もひどく「南部藩四大飢饉」といわれる。
2.三本木原開拓の始まり
新渡戸傳の胸にやどった三本木原大規模開拓の志
この広大な三本木原に早くから目をつけていたのが、南部盛岡藩士・新渡戸傳であった。
文政3(1820)年傳27才の時、花巻で兵法を教えていた父・維民(謙信流軍学師範)が、花巻城縮小の藩議に反対したとの誤解を受けて北郡川内(現・下北郡川内町)へ流された。傳はこの時父と共に川内へ行き、禄を取上げられた父を養うため安野屋素六(屋号・太)と名乗って商人となり、下北や十和田湖周辺の材木を江戸で売り大きな利益を得ている。
この商人時代に度々三本木原を往復するにつれて、傳はこの広大な土地が耕地としてあまり利用されていないのを国家的損失と非常に惜しみ、いつか三本木原を大規模に開拓しようとの念願を持つようになったという。そして、商人の余暇に京都、大阪、四国など旅する間、各地の産業を広く見聞し、特に開墾経験者を訪問するなどして上水、開田の新法研究をしており、この事が後に三本木原開拓の大事業を行うにあたって役立っている。
南部盛岡藩へ任官後は開拓のエキスパート
文政9(1826)年、父維民は藩への帰参がゆるされ、材木商をしていた傳も天保9(1838)年、45歳の時に南部盛岡藩士にもどった。傳はその後、商人時代に学んだ事を生かして領内の開墾に着手。岩手、志和、和賀、稗貫、(現・岩手県)の4郡21の村で開拓を成功させ、それらの功により嘉永元(1848)年には勘定奉行となった。さらに嘉永3(1850)年に傳は、新渡戸宗家・新渡戸佐金吾(因幡ともいい、盛岡藩家老・新渡戸丹波の曾孫)の名で小規模ながら三本木原内の北郡相坂村(現・十和田市)、犬落瀬村(現・六戸町)の2 つの村で開拓を行い、三本木原大規模開拓への自信を深めた(これにより傳は合計5郡23の村、300haを開田)。その後も各所で開墾を行い、南部藩内でも傳は「開拓のエキスパート」と目されるようになっていった。
新渡戸傳ついに三本木原開拓に着手
南部盛岡藩は広大な地域を有したが何度も凶作があり、加えて幕末には蝦夷地警備などのため財政が逼迫し、農民の生活は悲惨なものだった。当時は藩の建て直しのため新田開発は重要な課題であり、ついに安政元(1854)年「十ヶ年士の制」を施行した。これは、格下の武士から身分と家禄をとりあげ、10年の猶予期間内に新田開発で成功したものや学問や武芸で認められたものだけを、再び藩に召し抱えるという制度だった。特に新田開発で成功すれば、開墾した分がその者の家禄として与えられ、10年経っていなくてもその時点で再び藩に召し抱えられるので、十ヶ年士の対象となった者達はなんとか開拓に成功しようと、開拓のエキスパート・新渡戸傳のもとに助言を求め集まった。そこで傳は、それらの人々や志を同じくする商人などと協力する形で、かねてから計画していた三本木原の大規模開拓を実行にうつす事を決意し、安政2(1855)年4月、開拓願いを藩に提出、8月に許可され三本木新田御用掛となり工事に着手した。傳62歳であった。
3.三本木原開拓はこうして行われた
稲生川をつくる
広い三本木原に田畑が少ない一番の原因は、周辺の川が低地を流れている事だった。川よりも高い場所ではその水を十分に利用できず、人々は川沿いの低地か、湧水をたよりに小規模に田畑を開いていた。そこで傳は、奥入瀬川から水を取り三本木原に上水して太平洋岸まで達する新しい川を作り、広い台地上で大規模に開拓を行おうと考えた。しかし三本木原は台地で、一番差のある所では奥入瀬川より30mも高くなっているため、上水するには奥入瀬川の上流にさかのぼって水の取り入れ口を設け、途中穴堰(トンネル)を通して三本木原まで水路をつくるしかなかった。
安政2(1855)年9月工事に着手し、鞍出山穴堰(熊ノ沢~矢神・1412間=2540m)天狗山穴堰(法量~段ノ台/900間=1620m)の二つの穴堰と陸堰(矢神~三本木/3980間=約7.2㎞)を掘りぬいた。途中勘定奉行となり江戸詰めを申しつけられた傳にかわって嫡子・十次郎が指揮をとり、安政5(1858)年4月24日仮通水が行なわれたが、途中の水路が壊れたため補修工事を行い、安政6(1859)年5月4日、ついに約4年の歳月をかけて三本木原への上水に成功した。(熊ノ沢川からの上水)川は翌年南部利剛公より「稲生川」と命名され、現在もこの名で親しまれている。
三本木原への上水は完成したが、当初予定していた太平洋岸までの通水には水量が足りない事がわかり、十次郎が中心となって第二次上水計画を立てた。この計画では取水口をさらに上流に設け、穴堰を三本掘り、もう一本の水路を稲生川に合流させ、水量を増やして太平洋まではもちろん多くの支流に水を供給しようと考えていた。そしてこれには、むつ運河(小川原湖からむつ湾に直接通ずる運河)開さくをはじめとする小川原湖開拓計画、野辺地、田名部、下北、大畑方面の開拓計画も含んでいた。慶応2(1866)年すでにある鞍出山穴堰の北側で穴堰工事に着工したが翌年十次郎が亡くなり、明治維新の混乱もあって計画は未完成に終わった。この第二次上水計画はその後国営開墾事業によって受け継がれ実現されている。
当時の測量方法
方位器で方位を、梵天を立てて間縄で長さを測り、水定規、勾配器をつかって高低差を測った。お椀に水を入れて水平を取ったといわれている。間縄にはかんな屑をむすびつけて目印にしたという。また、勾配は夜に提灯を標柱に下げて測量するとよくわかったとも伝えられる。当館に残る水路の測量図を見ると、測量技術の水準の高さが伺える。
上水工事の苦労
・穴堰工事
穴堰(トンネル)は鞍出山(熊ノ沢~矢神)、天狗山(法量~段ノ台)の二カ所合計約4.2㎞で、幅六尺(約1.8m)、高さ五尺(約1.5m)の穴堰を鉄槌と鑿、ばんづる、なかづる、てんばづるなどを用いて手作業で掘った。まず何組かにわかれて山の斜面から横穴を掘り、それより左右に掘り進んで、それぞれの工区をつなぎ一つの穴堰にする工法をもちいている。また、当時の技術では直線に掘れず、岩盤の状況や山ひだの形状を見て掘っていったので穴堰の中は曲がりくねっている。・京ノ館の深掘
京ノ館(現・十和田市矢神~八郷附近)の地盤は非常に高く、水路の勾配を一定に保つために三丈五尺(10.5m)も掘り下げなければ水が流れないので、非常に苦心したという。・何度も決壊した巫女塚
巫女塚と呼ばれるあたりでは、たくさんの土を運び10mほども盛り上げて、山の斜面にそわせるように水路をつくらなければならなかった。杭をたくさん打ちこみ、土台作りをしたという。この場所で水路がほとんど直角に曲っているため、通水後何度も決壊し補修作業を行っている。三本木原への上水に成功した安政6(1859)年5月4日を記念して、毎年5月4日に十和田市挙げて「太素祭」(太素は傳の号)を盛大に行っている。
田畑をひらく
安政2(1855)年に始まった上水工事と平行して各所で開田が行われた。当初は三本木村内の他に、当時の相坂村(小稲、高清水)、藤島村、折茂村、吉田村、百石村(深沢、一川目、二川目、三川目)内での開田も計画されており、2500町歩(2500ha)の開田とともに、3000石の収穫を見込んでいた。安政2年の開拓着手と同時に取水口から遠くはなれた百石村でも開田事業に着手している事はあまり知られていないが、当初から太平洋岸まで通水する計画だったので、早くからこれらの地域の開田に着手していた。
上水成功の翌年、万延元(1860)年に初めて作付けが行われ、その年の秋に米45俵を収穫した。その5年後、慶応元(1865)年新田検地が行われ、開田は300町歩、930石余の石高をあげた。その後さらに十次郎の立てた第二次上水計画によって10万石から数10万石の収穫を上げる予定だったが、前述の通り十次郎の死による工事中止などで未完に終わり、昭和41(1966)年に終了した国営開墾によって成しとげられた。
町をつくる―十次郎の都市計画―
安政6(1859)年上水が成功すると、本格的に新町の建設が始められた。三本木の新町は十二町四方碁盤目状の都市計画をもとにつくられていった。これは、上杉流の兵法に基づき、又京都の市街を模して考えられており、往還を中心に東西南北十二町四方、本道路は八間、裏通は6間の道幅とした。通常1間は6尺(1.82m)で計算されるが、区画整理を行なうにあたっては6尺5寸(1.97m)をもって一間としているので、表通りで約16m、裏通りでも約12mと大変広い道路を計画している。
このように、傳の上水と開田を中心とした三本木原開拓の構想をさらに拡張し、雄大な都市計画まで考えたのは、嫡子・十次郎であった。区画整理とともに街の中に用水路を設け衛生面、防災面に配慮するのはもちろんの事、住宅区域、耕作区域、商業区域などの土地利用区分も行なっており、今日近代都市計画の先駆的な例として注目されている。この時代を先取りした都市計画は、十次郎、傳亡き後、生産力の向上を第一目標に上水や開田を重視する時代の流れの中でなかなか実現されなかったが、戦後の復興期に再び注目され、十次郎の計画した街割りと道路計画をほとんどそのまま踏襲する形で十和田市中心街が整備され、現在にいたっている。
産業開発
傳と十次郎は新しい町に様々な産業をおこすことを考え各地から教師を呼び、人々に養蚕、瀬戸物焼出し、鋳物、製革などの方法を教えさせた。近郷の農家と新町・稲生町の交易の場として、六の日を市日と決めて市場も開いた。又、三本木は南部駒の産地でありながら掫市がなかったので、文久2(1862)年、稲生町に掫駒市場を開設したが、この馬市には全国から人が集まって後に「三本木の馬市」として有名になり、町の発展に大きな力となった。
他に、凶作に備えるため、さつま芋の試作をしたり、ジャガイモの種芋を分け与え植えさせるなどの農事指導も行った。このジャガイモ栽培は青森県で最初といわれている。それでも凶作となった時には、傳をはじめとして新渡戸家一族が出資し住民の離散を防いだという。こうして段々と人も多くなり家なみも増え新町・稲生町は活気に満ちていった。
防風林を植える
三本木原は火山灰土壌のため昔から樹木があまり生えず冬はこの平原で凍死する旅人が多かったが、文政年間(1818~1830)になると盛岡藩では奥州街道沿いを中心に防風林の植え立てを行い、七戸代官により三本木植立奉行が設置された。法量、深持、三本木、洞内、馬洗場、大沢田、八斗沢、立崎、新館、大浦、上野、二ツ森、作田、野崎、花松、中岫、天間館、榎林、甲地の十九か村に夫役勤務の制を定め、防風林設置場所から三里(12㎞)以上遠くに住む者は一人につき、高さ6尺(1.8m)幅六尺の土手を2間(3.6m)ずつ、三里以内に住む者は3間(5.4m)ずつ築き、土手の上一坪(3.3㎡)ごとに十二本の雑木を植えさせた。三本木植立奉行はこの植え立ての監督を行った。
天保9(1838)年、45才の時傳は、田名部、野辺地、七戸山奉行(山林方兼役)として防風林の植え立てに尽力し、翌天保10(1839)年、更に大槌、宮古、野田、五戸の御山奉行兼帯山林方も仰付けられ、ますます力を尽くした。そしてこの頃、三本木地域に「鍵の手型」防風林がいくつか完成しており、旅人の困難を救うと同時に農作物を守り、後の三本木原開拓への大きな助けとなった。
安政2(1855)年から着手された三本木原開拓事業の中で、三本木での防風林植え立ては以前にもまして力を入れ行われた。傳、十次郎は、新町・稲生町を風から守るため大型の防風林を東西数ヶ所に設置している。
明治17(1884)年軍馬補充部が三本木に入っても昔からの防風林を受け継ぎ、防風林造成事業を行った。現在、昔の名残りをとどめる大樹はそうした歴史を物語っている。
4. 受け継がれた三本木原開拓
十次郎、傳の逝去と開拓の継続
安政4(1857)年新渡戸傳が勘定奉行として江戸詰めを仰せ付けられると、息子の十次郎が傳にかわり新田御用掛となり、以来中心となって開拓を取り仕切っていた。しかし、文久2(1862)年今度は十次郎が勘定奉行を仰せ付けられ江戸へ登り、傳の四男・太田時敏(太田家の養子となった)が新田御用掛として開拓を管理した。
十次郎はその後、御目付や御用人などの要職をつとめ功をあげ、当時困窮していた藩財政を建て直すため、領内の絹を税として物納させ、それを直接フランス人に売る事を献策した。また、この収入の一部を三本木原開拓の事業費に充てようとした。しかし、讒言されて失意の余り病気となり、慶応3(1867)年12月24日、47才の若さで盛岡で逝去した。十次郎逝去の翌年、明治元(1868)年にはその長男・七郎(もと邦之助といったが改名)が新田御用掛となり、傳とともに開拓に尽力した。
開拓事業を進めるかたわら、明治2(1869)年に傳は七戸藩大参事となり国政に参画し、同三年には三本木新田を国営にしようと時の民部省に願書を提出した。しかし、願いが聞き届けられないまま、明治4(1971)年9月27日、78才で人生の幕を閉じた。
傳翁逝去の後は七郎が中心となり三本木原開拓につとめ、当時戊辰戦争(1868~1869)後、藩がお取り潰しとなり移住さきをもとめていた元会津藩士(=斗南藩士)の一部を三本木に移住させ開拓地を提供するなど、その引受けにも尽力した。
その後も開拓は地域の人々に受け継がれ、明治17(1884)年4月には共立開墾会社が設立され、さらに大正10(1921)年稲生川普通水利組合が設立、ついに傳翁の念願であった国営による開墾事業が昭和13(1938)年開始された。そして、大規模な十次郎の第二上水計画も実現し、現在の近代的農業用水路・稲生川が完成した。
現在の稲生川
現在太平洋岸まで達し、多くの支流をもつ稲生川の総延長は70㎞余りとなった。そして十和田市を中心に2市4町(十和田市、三沢市、七戸町、六戸町、旧上北町、おいらせ町)にわたる三本木原開拓地域の耕作地は約5900ha(平成18年現在)と新渡戸傳による2500町歩(ha)の開田計画は達成され、県内屈指の米どころとなっている。そして十次郎による第二次上水計画も、ほぼ完全に実現されている。
■三本木原開拓ミニ年表■
- 暦
- 主な出来事
- 安政2(1855)年
- 新渡戸傳(62歳)藩から三本木原開拓許可され三本木新田御用掛となり9月人工河川工事に着手。
- 安政3(1856)年
- 4月鞍出山穴堰(トンネル)2540m10月陸堰 2727m完成 傳再び御勘定奉行となる。4月鞍出山穴堰(トンネル)2540m10月陸堰 2727m完成 傳再び御勘定奉行となる。
- 安政4(1857)年
- 傳の長男十次郎(37歳)が新田御用掛に、天狗山穴堰1620m完成。
- 安政5(1858)年
- 4月陸堰 4464m完成。
- 安政6(1859)年
- 5月4日人工河川へ通水成功(熊ノ沢川からの上水)。
- 万延元(1860)年
- 十次郎十二町四方の都市計画実施、人工河川に橋建設、南部藩主利剛公により「稲生川・稲生町・稲生橋」と命名、防風林植林、産業開発盛んに行う。
- 文久2(1862)年
- 5月段ノ台~熊ノ沢間陸堰完成、法量上水路工事着工十次郎御勘定奉行御元締となり江戸詰め。
- 文久3(1863)年
- 傳の四男・太田時敏新田御用掛になる。 3月18日奥入瀬川からの上水成功。
- 慶応元(1865)年
- 開拓地域で新田検地実施。開田面積は300ha石高は930石(開拓以前の約10倍)
- 慶応3(1867)年
- 十次郎の第二次上水計画着工、12月十次郎逝去(47歳)。
- 明治元(1868)年
- 十次郎の長男・七郎(25歳)が新田御用掛になる。
- 明治3(1869)年
- 傳三本木原開拓を国営事業にと願書を民部省へ提出。
- 明治4(1871)年
- 9月傳逝去(78歳)。
- 明治17(1883)年
- 三本木共立開墾会社設立(後に株式会社となり稲生川は太平洋岸まで約39㎞)。
- 昭和12(1937)年
- 三本木原国営開墾事業開始。
- 昭和41(1966)年
- 国営開墾事業終了(平成18年時 耕地面積5900ha、稲生川総延長約70㎞に至る)。
※安政2(1855)年から明治2(1869)年までの開拓にかかった人手と費用
人夫 210,531人(延べ人数) 総費用 165,000両